白山比め神社 : Shirayamahime Jinja

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白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)は、石川県白山市三宮町にある神社。式内社、加賀国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国に2,000社以上ある白山神社の総本社である。通称として「白山(しらやま)さん」「白山権現」「加賀一の宮」「白山本宮」とも。神紋は「三子持亀甲瓜花」。

石川県・岐阜県の県境に立つ白山(標高2,702m)の山麓に鎮座し、白山を神体山として祀る神社である。
元は現在の古宮公園の場所に鎮座していたが、室町時代に火災で焼失し現社地に遷座した。また白山山頂の御前峰には奥宮も鎮座し、山麓の社殿はこれに対して「下白山」または「白山本宮」と呼ばれていた。
境内には国宝の剣(銘 吉光)のほか、重要文化財が多数伝えられている。

主祭神は以下の3柱。
白山比咩大神 – 菊理媛神(くくりひめのかみ)と同一神とされる。
伊邪那岐尊
伊弉冉尊

創建は崇神天皇の時代とされる。元来は現在の古宮公園の場所に鎮座していた。
養老2年(718年)、越前の修験僧・泰澄大師によって白山の主峰・御前峰に奥宮が創建され、白山妙理大権現が奉祀された。
平安時代中期(9世紀頃)になると、自然崇拝の山から修験者の山岳修行や、神仏習合思潮に彩られた修験の霊場へと変質を遂げるようになった。白山には加賀・越前・美濃3国それぞれから山頂に至る登山道(禅定道)が開かれ、それぞれの道筋に宗教施設(社堂)が次第に整えられていった。

文献史料上での確実な初出は、仁寿3年(853年)10月に従三位に加叙せられたという記事である。ただし、承和7年(840年)に成立したと思われる『延喜式神名帳』では、加賀国石川郡10座中の筆頭に載せられている。
平安時代末期(11世紀末)、加賀国禅定道筋の白山系社堂(白山加賀馬場)の中心的存在であった当社は加賀国一宮とされ、一国の神社を代表とする立場から勧農を目的とした国衙祭祀を担った。

久安3年(1147年)4月には、越前禅定道筋の社堂(白山越前馬場)の中心である平泉寺が延暦寺末寺化の動きを示すと、当社も同月に延暦寺山門別院となり、比叡山の地主神・日吉七社にならい、本宮・金剱宮・三宮・岩本宮・中宮・佐羅宮・別宮という白山七社を形成した。加賀馬場において、白山本宮長吏は白山七社惣長吏を兼帯し、他の6社の長吏と馬場全体を統括した。惣長吏は僧名に「澄」の通字を用いて真弟(実子)相続の結縁的な世襲制であった。

白山本宮(白山比咩神社の当時の呼び名)は、平安時代中期から鎌倉時代を経て、室町時代前期に至る約500年間栄えた。室町時代中期以降は、白山本宮が鎮座する味智郷(みちごう)でも富樫氏など武士の勢力が強くなり、白山七社の結び付きが弱まった。白山本宮は洪水や火災に度々遭って再建を重ね、文明12年(1480年)の大火で全ての社寺が焼失し末社である三宮の鎮座地(現社地)に遷座した。

これに先立つ文明3年、本願寺8世蓮如上人は、吉崎に道場を開いて北陸に浄土真宗を広めた。弥陀の本願を信じあの世の往生を願えという教えは、白山信仰に取って代わっていった。武士・農民からなる門徒集団は、長享2年(1488年)加賀の守護富樫政親を金沢の高尾城に攻め滅ぼした。以後織田信長配下の武将柴田勝家が金沢御坊を攻め落とすまでのおよそ100年間、加賀は「百姓のもちたる国」といわれ、中心が金沢へ移った。こうした一向一揆による加賀国支配によって白山の世俗的権力は衰微し、社頭も荒廃した。


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石川県白山市三宮町ニ105-1
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36.4348444, 136.63616419999994
Web:
http://www.shirayama.or.jp/

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